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『風の旅人』 vol.39

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 この世の際 

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2009年7月

2009年7月26日 (日)

言葉のちから

 風の旅人の第31号〜第37号(6/1発行)まで、表紙を制作していただいた望月通陽さんに、次号で文章を書いていただくのだが、その原稿が届いた。
 若い頃、染め物職人として実用品を作って人々に喜んでいただくことを仕事の生き甲斐にしようとしていたけれど、あるきっかけで、実用としての物作りではなく本づくりという表現行為に関わって行くことになる際の葛藤と、そこからの跳躍を、望月さんは、言葉で表現してくれた。
 それを読んで、改めて思った。やはり人間には、言葉でしか伝えられない領域があるということを。
 たとえば土器作りのように言語を介さない身体行為は、その時間のなかにスッと入って行ける。
 しかし、望月さんが、言葉で書かれたように、「実用」や「自分が好きなこと」から社会に向けた「表現」に足を踏み出す時は、何をどうすべきか悩む。好きとか嫌いという範疇を超えて、その行為の根拠みたいなものが必要になる。実用の場合は、それを使ってもらえるという具体的な目標がある。しかし、表現の場合は、目的が曖昧になる。社会正義の旗をかざすこともできるだろうが、自分では無自覚のまま、それが誤っている場合もあるし、自分の手を介在させることで世界を歪めてしまうかもしれない。
 表現者として生き始めた望月さんは、自分の作品を人目に晒すことに対して、今でも恐縮しまくっている。物を作る事は喜びであるが、畏れ多くも、表現を通して世界に介在しているわけだから、果たしてそれでいいのかという煩悶が、自分につきまとっているのだろう。
 私の場合、本業は旅行業であり、こちらはわかりやすい世界だ。お客さまに満足していただく。そして、できれば自分たちのサービスのファンになっていただく。まず、その努力を精一杯にする。さらに、より多くの人に知っていただくための知恵を絞る。そのように勤めながら、出ていくお金より、入ってくるお金が大きければ、食べていける。
 それに比べて、「風の旅人」は、いつも無の状態から編集をはじめることになるのだが、その基準が、世間で流行っているものを探すこととか、実用的な情報といった具体的なものであれば、それに添ったアンテナの張り方をしていればいい。しかし、「風の旅人」は、そういう作り方をしていないので、いつも宙ぶらりんの状態になる。
 そうした時、自分の脳のなかには、様々な思い(言葉)が去来し、それが心を圧迫する。奇跡的に、新たな認識(言葉)が生じて、心が解放されることもある。
 様々な思い(言葉)が脳に去来するかぎり、思い(言葉)によって、それを受け止めたり、時には上手に交わすことが、どうしても必要になる。何よりも、言葉によって認識することで、一歩前に進めることが多い。
 例えば土器作りや、会社の仕事でも決められたことを左から右に流すように何も考えずに没頭している時は、認識以前の世界の中を漂っているようなものだ。ずっと漂い続けられるならば、それはそれで幸福なのかもしれないが、人間というものは、様々な思い(言葉)が脳に去来するようにできている。現実と向き合いたくないために、その思い(言葉)を圧殺したり、見て見ぬふりをしてごまかし続けていると、どこかに皺寄せがでてくる。自分を悩ませる思い(言葉)は、その場を凌ぐだけなら色々な方法があるだろうけれど、根本的な解決のためには、それを超えた認識(言葉)との出会いが必要だと思う。自分の状態を外から包み込むように認識できてはじめて、その状態に自在に出入りすることが可能になる。
 土器作りのように(好きなことをやっている)自己満足の状態や、人に言われたことを右から左に動かしているだけの言語不要の状態は、人間が言語的ストレスを軽減して生きて行くうえで必要なものだが、その彼岸世界に行ったきり戻れなくなってしまうと、世界の現実と自分との関係が切れてしまう。自分の知ったことではない、というモードになる。人間を此岸に引き戻すのは、言葉の力だ。この力が弱まると、人間は、彼岸に行きっぱなしになってしまう。
 彼岸と此岸を行き来しながら生きて行くことが人間であり、彼岸に行きっぱなしにならないように、此岸に閉じ込められてしまわないように、バランスが必要だろうが、言葉なくして、それはできない。
 彼岸には彼岸の楽しみがあるが、此岸の懐の深い楽しみ方をつくりあげたことが、人間ならではの知恵だと思う。それは、新たに気付き、そのたびに世界を発見し、自分の視点も変わっていくということだ。
 そうした変化は、短期間だと明確に感じ取れない微弱なものだが、3年とか5年、さらに10年という単位になると、明らかな電位差が自分の中に生じていることがわかる。時間を経て自分の中に電位差が生じ、世界に対するポテンシャルがアップしていると認識さえできれば、たとえ宙ぶらりんの状態でも、心強くいられる。現実逃避をする必要もないし、思考停止によって自分を麻痺させなくてもすむし、長いものに捲かれるという発想にならなくてすむのではないかと思う。

2009年7月22日 (水)

無心の遊び

 最近、縄文風土器づくりに没頭している。6月14日に八ヶ岳山麓の尖石縄文遺跡で、生まれて初めて土器作りの簡単な手ほどきを受け、それ以来一ヶ月ほど休日で5つも作った。作るたびに土器が大きくなっている。
 縄文風土器作り用の粘土として野焼き用の粘土をインターネットで30kgほど買った。一つの土器で、だいたい3kg〜5kgの粘土を使う。現在は、ゆっくりと自然乾燥させており、もうしばらく経った後、河川敷か海岸で焚き火を起こして、縄文人のように野焼きをするつもりだ。
 粘土をこねながら土器をつくっている時は、まったく無心で、何時間も没頭している。10時頃から作り始めて、あっという間に夕方になってしまうこともあれば、夜9時頃から早朝の4時頃になってしまうこともある。粘土は乾いてしまうと作業できなくなるので、一日で一挙に完成させなければならない。
 縄文人の世界観は現代人の私にとって彼岸なので、彼らと同じことはできない。あくまでも”縄文風”というにすぎない。
 ただ、縄文土器の文様などは、とても心に響くところがあり、自然とそれに似た風になっていく。デザインをどうしようかなどと頭で考えてしまうと、おかしくなってしまう。あくまでも手の動きに委ねて作るだけで、作業中は、一種瞑想的な変成意識状態に入っているのではないかと思う。
 この感覚は、私の場合、「風の旅人」の編集で、写真を選び、組む時の感覚に似ている。
 編集のために写真家のところに行く時は、いつも独りで写真と向き合う時間を3時間ほどいただく。隣に写真家がいて、あれこれ説明されたりすると気が散ってしまうので、別の部屋にいってもらい、まずは独りで写真と睨めっこしながら手を動かして組んで行き、その後で写真家を呼んで見てもらう。これまで、そういう方法で組んだ写真で、写真家から不満を言われたり、修正を要求されたことはない。左脳とか右脳という言い方がよくされるが、おそらく写真を組む時、私は完全に右脳モードだと思う。頭のなかに言語的理性がまったく入り込んでこない。どちらかというと身体のリズムのようなもので作業を行う。心に負荷がかかっており、その途中は疲れをまったく感じないが、終わった後、ヘトヘトになる。そして、作業中は、時間の感覚はまったくない。
 土器を作る時の感覚は、これに似ている。実用性はまったく関係なく、身体が欲するリズムと形を求めて、目と手を動かし神経を集中するのだ。
 私は、中学校2年生まで、兵庫県明石市の藤江の海水浴場から50メートルほどの所に住んでいた。
 夏は、毎日のように海で泳いでいたが、それ以外の季節は、海のなかに身体半分浸かり、長い竹の棒の先に針金で鈎をつくって海中に漂うワカメを探し、狙いすまして引っ掛けたり、波打ち際で、砂の砦を作って遊んだりしていた。
 砂の砦を築く場所は、波から近過ぎるとすぐに崩壊するし、遠過ぎてもスリルがない。微妙な距離の所を選んで、時々襲ってくる大きな波に抵抗するために、砦の前に溝を掘ったり、水が側面に逃げるように水路を作ったり、いろいろ工夫をしながら、砦を高く積み上げていく。それでも、時々強烈な一波がやってきて、全てを砂に還してしまう。そしてまた新しく築く。飽きもせずに。
 ワカメの方も、バケツ一杯になったところで家に持ち帰り、物干で乾燥させ、近所に配っていた。
 ワカメを獲ることより、バケツ一杯の濡れたワカメは手がちぎれそうになるほど重く、それを家まで持ち帰ることが苦痛だった。けれども、どこか誇らしい気持ちもあって、飽きもせずに、それを繰り返していた。
 当時は、中学校受験なんて、どこか異国の出来事で、左脳よりも、右脳を活性化させることに夢中になっていたような気がする。
 波打ち際の砦作りも、ワカメ獲りも、縄文風土器作りも、そして写真を編集する時も、頭の中の状態はよく似ているように思う。
 なんというか、対象を目で愛で、手で慈しむような幸福な時間だ。
 左脳を機能させなければ、社会で生きて行くことは難しい。しかし、左脳というのは、あまり幸福とつながっていないような気がしてならない。
 左脳は、幸福や喜びに至る道をつくるうえで有効な機能なのだろうけれど、喜びそのものを感じ取るのは、別の領域であり、その領域が活性化していなければ、喜びに対する渇きから、左脳の計り事をいつまでも駆使し続けることになってしまう。
 そこそこのことで充分な喜びが得られれば、それが、自分にとっても、環境全体にとっても、よいことなのに、今の自分も含めて、なかなか簡単にはそうはならない。
 

2009年7月10日 (金)

消費の発想からの脱出

 ある人から、次のような言葉を投げかけられた。
「 無数の回転している球があり、それぞれに凹か凸が1つだけある。そして、ある球の凹に合う凸を持った球が1つしかないとしたら、凹凸を合わせるために、回転の速さを上げることは、決して悪いことではない。」

 私が、写真の売り込みなどで、「出会い方」に言及していることに対して疑問を感じる人が書き送ってきたレトリックだ。
 この種の考え方は、今日の社会において、写真の売り込みにかぎらず、例えば就職活動などにおいても多く見られる。
 何十社もワープロ打ちの志望動機と履歴書を送れば、どこかに引っ掛かるかもしれない。自分の何をどのように評価してくれるかは相手次第であり、自分にはわからない。だからとにかく、あちらこちらに球を投げるというものだ。
 私は、これが間違った考えだとは思わない。そういう”社会”なのだろうと思う。そういう風に”教育”を受け、そういう風に、テレビを初めとするメディアに教えられてきているのだろうと思う。
 これじたいは、間違っていることだとは思わないが、”その前にすべきことがある”ことについては、誰も教えてくれない。
 例えば、鉋を上手にかけることができないまま、家を建てようと思ってもうまくいく筈がない。
 そのことは理屈では知っているが、では「鉋を上手にかけること」が、具体的にどういうことかを知っていないケースが多い。
 どんな物事にも準備が必要だろうが、「技術」や「情報知識」程度のことが準備だと、知らず知らず思っていることが多い。
 物事に凹凸があることはわかっていても、凹凸の形にしか目がいかず、組みあわせるためのスケールの違いや、材質そのものの違いに無自覚なことがある。
 学校では、凹凸の形を変えることを教えてくれても、凹凸のスケールや材質を変えるために何をどうすればいいか、なかなか教えてくれない。
 近年、メニューの種類には凝っているけれど、味が大雑把で繊細さをまるで感じない店が増えた。そういうものはすぐに飽きる。飽きやすいものと、そうでないものの違いに無頓着の人が大勢いるから、そういう店も多くなる。店に限らず、雑誌もそうなのだろう。だから、作品の売り込みにおいて、凹凸を合わせるために回転の速さを上げるという発想になる。
 しかし、普通に考えればわかることだが、サイクルの速い社会に自分の凹凸をうまく合わせるために回転を上げなければならないという発想は、たまたま合うポイントがあっても、結果的に、速いサイクルのなかで次のものと交代し消費されやすい存在になることに等しい。
  ならば、自らの凹凸を社会とうまく合わせながら、速いサイクルのなかで消費されず、飽きにくくなるための方法は、あるのだろうか。
 その方法を理屈で考えてもわからない。そういうものは決して多くはないかもしれないけれど、社会の中に存在する。それらを見つけだし、その近くで様々なことを噛みしめながら、秘訣を掴み取っていくしかないのだろう。
 そうしているうちに、凹凸の形だけでなく、質やスケールの違いがわかるようになり、それがわかるようになって初めて、自分の視点も、ステレオタイプではなくなるかもしれない。その自分の視点こそが、固有の自分をつくりあげていく要の力であり、簡単に消費されない自分のための第一歩なのだろうと思う。



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