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『風の旅人』 vol.39

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 この世の際 

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2009年11月

2009年11月30日 (月)

アートの行き先について思うこと

昨日、吉祥寺の[ON GOING]というミニギャラリーで、若いアーティストの海老原優さんと、トークをした。作品や、彼女の世界との付き合い方に触発されて自分の中から新たな言葉が生じるのが、気持ちよかった。

私はこれまで美術館などで開催される「現代アート」に心を動かされることは、ほとんどなかった。既に自分が認識済みのことを敢えて抽象的に示しているものや、自己破壊的な態度を作品に反映させたものは、今ここから次の位相へと自分を導いていく原動力になりはしない。また、好きか嫌いか、というレジャーの延長線において楽しむのなら、自分で縄文土器を作って眺めていた方が、まだいいという感じがあった。

でも、その理由は、昨日の海老原さんとの話で、なんとなくわかった。

海老原さんの表現を私はとても面白いと感じたのだが、美術界では、「コンセプトがない」などと否定する圧力があるのだそうだ。なるほど、美術館で行われるアートというのは、学芸員(最近は横文字でキュレーターというのか?どうでもいいけど)の人が、“コンセプト”があると判断するものを選んでいるということなのか。もしそうなら、つまらないものになって当然のことだ。

私達は、日々生きていくうえで、様々な局面と境界面を接している。私は、海老原さんの作品を見て、それらの境界面を自分に都合よく線引きして選びとるのではなく、絶え間なく動揺し、不安になったり絶望したりしながら、どこかにあるかもしれない究極の一点での交わりを祈って生きていかざるを得ない人間存在の哀というものが滲み出ていると感じた。

彼女が作り出した立体像の小さな三次元世界への親近感と、その立体像の影を浮かび上がらせながら大きく引き伸ばされる二次元映像の錯誤と眩暈感覚。

その眩暈感覚を嫌って避けて三次元の親近感ある物の世界に閉じこもって生きることを指向する人もいるが、現代人は、社会の仕組みのなかに根をおろしている二次元映像世界の影響から完全に逃れることはできない。敢えて意識的にそうしたとしても、意識と現実のあいだに断絶が生まれるだろう。

二次元と三次元という位相の異なる世界の“間”にあるのが現代の生だ。だから、そのことを誠実に認めたところからしか、次の一手は生まれない。

そういう意味で、海老原さんの作品は、コンパクトな構成のなかに、私達が置かれている多元的界面状態がうまく表されていると私は感じた。しかし、ただそれだけで終わってしまうならば、現象を抽象に置き換えただけのことになる。

あまり書いてしまうと種明かしのようで下らない解説になってしまうのだが、彼女の作品のなかで、二次元世界で横向きになった人間映像の溜息のような“つぶやき”と、三次元世界の立体の人間像との“間”に、人間の身体性というものを捉えるうえで、とても重要な鍵が秘められていると私は感じた。

海老原さんが作った三次元世界の立体像の立ち姿が私は大好きである。あれは、武術や、能などの、“吊腰”の立ち姿だ。肩の力を抜いて自然体ではあるけれど緩んでいるのではなく、“静”から“動”に瞬時に動き出せる姿勢であり、かつ、四方のどの方向に対しても、応じることが可能な構えなのだ。

海老原さんは、吊腰のことはまったく意識していなかった。自分の身体感覚で、あの形を導きだした。彼女は、自分の身体で三次元空間に生きて、膨張した二次元空間とも身体の一部である脳機能で向き合いながら、世界から降り注いでくる刺激に吊腰の姿勢で対応する人間の(現在における理想となるかもしれない)姿を、あそこに置いている。

だから私にとって彼女の作品というのは、簡単には言葉にならないかもしれないけれど、もしコンセプトというものが必要ならば、それが明確に伝わる作品である。

こうした作品に対して「コンセプトがない」といって切り捨てる輩にとってコンセプトとはどういうことかというと、多次元的界面状態の世界のなかから、適当に一部だけを選び出して、それを抽象化したものにすぎないということではないか。

“反アート”なども、当然のごとく多次元的界面状態の世界のごく卑小な一部にすぎないものであり、そういうものは、美術館に一つ便器を置いておしまいにするべきもので、それを最初に行った偉大な先人に恥もなく追随するだけのことを、アートとか、コンセプトと称する凡人が山といて、芸術を混乱させている。

しかも、この現象がより複雑になるのは、その種のどうでもいいことを本で御勉強して、情報を頭に詰め込んでテストでいい点をとれる輩が、権威的なものに非常に弱い美術官僚世界で採用され、この業界の水先案内のようになってしまっていることなのだ。

まあそんなことは、この際、どうでもいい。私が面白いと思うのは、「ON GOING」のような、「権威なんて糞くらえだ」という有志が協力し合って、自主運営のギャラリーを立ち上げる運動が、少しずつ広がっていることだ。

美術館などのように、「来場者数」とか、「結果責任」とかに縛られている世界は、「海外で有名な・・・」とか、「社会的に注目を浴びている・・・」といった、長いものに巻かれろ式の運営になるのも仕方ないし、その方面の立ち回りがうまい人達が、重宝され、力を持つのも当然だ。

そういう呪縛から解放された場をつくっていくことが、これからの表現世界において、とても重要なことになるだろう。写真などに於いても、雑誌社に売りこむという発想ではなく、そういうことにいちいち揺るがされない場を確保していくことの方が、表現を深めていく上で大事なのではないかと思う。

そういうことを私が言うと、「活動の場を増やしたい」とか、「不特定多数の人に見てもらうことこそが私の望むこと」とか、ギャラリーで作品を発表するよりも、「雑誌に掲載され、全国の人々に届けられたほうがずっとうれしい」と言ってくる人もいる。その気持ちもわからないではないし、率直な気持ちなんだろうと思う。

でも、その「不特定多数の人」という抽象性にこだわってしまう自分って、いったいどういうことなんだろうと考えることも大事ではないか。

そういう感覚も、もしかしたら大衆メディアに知らず知らず刷りこまれた価値観かもしれない。

不特定多数って、いったい何者なんだろう。本当に実態のあるつながりを保証するものなのか?

たしかに大衆メディアは効率的に出会いを御膳立てする可能性を持っている。しかし、今日のように急速に狭まった社会では、出会うべくして出会う出会いは、一挙に起らなくても、継続する時間軸のなかで、自ずから起っているように思う。そうした落ち着いた心理モードになっている時、なぜか出会いは向こうからやってくるのだけど、大衆メディアに訴えるといった類の性急なスタンスが自分を苛々と支配するようになると、歯車が狂いだすような気がする。

 出会いや、つながりというものに対する性急な態度というのは、自分のその思いが受け入れられなかった時に、怨みの気持ちを生む。

 その人は、その人個人の動機として、つながりを求めている。だから、自分では、純粋だと思っている。その純粋を受け入れようとしない相手は、酷い人だということになって、逆恨みをする。

 だから私は、「写真の売り込みしか考えていない」というオーラを発している人の売り込みは、できるだけ受けないようにしてきた。

  「作品を売り込んで、発表して、人に知られるようになりたい」という、焦燥感とか、不満とか、逆恨みの構造が、大衆メディアの作り上げてきた、「数」とか、「有名」といった価値観のなかに潜んでいないだろうか。 人と関係を持つにあたって、こうしたから自分を解放しないかぎり、良い関係も持てないだろうし、また長期的に、こうした念を抱えているかぎり、よい作品も作れないだろうと感じる。

でもまあ、社会の表面には、まだそうした大衆メディア的価値観の世界がはびこっているが、近い将来、破綻することは間違いない。異なる動きというものは、それが終わった時に始まるのではなく、同時進行的に、地下で進んでいるものだ。それを見ている人と、見ていない人の違いがあるにすぎない。

  誰が見てもわかりやすい価値観である「数」とか「有名」のものは、何も考えずに多くの人が集中する。それが、経済の投資活動にも端的に表れている。昔は分散していたものが、どんどんと狭まってくる。IT、サブプライムローン、バイオエタノールと連動した穀物相場、石油、ドバイ・・・、2、3年前まではテレビ局が華々しく報道していたドバイも、あっという間に行き詰った。その期間はどんどん短くなる。次は、全てが中国に向かっている。鉄鋼に続き、自動車、そしてハリウッドを凌ぐ勢いの映画産業で、世界一になる中国。20世紀を象徴する“大きなもの”が、バブルの予感とともに中国に集中していく光景は、なんとも不気味であるけれど、それは、20世紀的価値観が引っくり返るパラダイムシフトを引き起こす、必然の、決定的な動きなのかもしれない。

2009年11月19日 (木)

「記憶の際」  11/29(日) 吉祥寺でトークを行います。   

11/29(日) 18時~ 吉祥寺の 「on going」 で、海老原優さんと私で、トークを行います。予約制:定員30名 予約制→ http://www.ongoing.jp/galle...


 『風の旅人』の次号は、彼岸と此岸2 ~この世の際~というテーマで編集を行っています。
このなかで、私が特に意識しているのは、経験と通して獲得してきた”記憶”と、生来の”記憶”の関係についてです。
 ”世の際”というのは、もはや地理的なレベルだけで論じられるものではないでしょう。人間が認識できる範囲で言語化できる記憶と、認識の曖昧な領域で言うに言われぬ懐かしさを感じながら言語化しにくい記憶との接点もまた、私達一人一人にとって、”世の際”ということになるのではないかと思います。
 自分が獲得してきた記憶は、人それぞれであり、そこの部分でのつながりを求めすぎると、それぞれの言い分によって、齟齬が生じる可能性があります。
 しかし、人間は、自らが明確に意識できていない記憶以前の記憶というものも、存在するかもしれず、それが全ての人間の共有地となる可能性だってあるような気がします。
 誰しも、自分の経験をもとに物事を考えてしまいます。それは、人間である以上、仕方が無いことです。こうして文章を書いていることじだい、経験に即した認識から自由になることは困難であり、個人的な認識の枠組のなかに、物事を固定しているとわかっています。
 何事も、自分自身の経験的記憶で割り切れるものではないことを自覚しながら、綿々と言葉を継ぎ足し、その先にあるものを迎え入れようとする。
 風の旅人が、写真と言葉の呼応力を生命線にしているのは、そのためでもあります。

 海老原優さんは、まだ20代のアーティストですが、この人の表現を見た時に、記憶以前の記憶を引き寄せようとするかのような、引き寄せては離れていくようなリズムを感じました。
 じっと見ると、離れていき、目を逸らすと、見えたように覚えるもの。

 色彩の識別はできるけれど感度の低い目の真ん中ではなく、色彩は識別できないけれど感度の高い目の縁で気配を感じる微妙な味わい。
 夢がモノクロであることが多いのは、目の真ん中で捉えている意識的世界ではなく、意識はしていないものの高い感度でとらえている目の縁の記憶が、脳内にインプットされているからではないかと、専門家が聞けば怒るかもしれない勝手なことを私は考えていますが、私が好きなモノクロ写真が、意識化の記憶に強く働きかけてくる理由も、きっとそのあたりにあると、個人的な体験を通してではありますが、思います。
 海老原さんの作品の特徴は、モノクロかカラーかという分別はどうでもよく、”淡さ”にあると感じられます。その淡さは、意識に強く働きかける目の真ん中と、無意識ではあるものの感度の高い目の縁のあいだで揺らいでいる感覚が、生みだしているのではないでしょうか。
 だからかどうかわりませんが、ムードに流れるのではなく、とても理知的に、目にみえにくい何ものかを構造化しようとしているように私には感じられるのです。
 私達の社会は、誰にとっても明確に意識できることが優先されて整えられます。マニフェストとか、事業仕分けの公開討議とか、この国の政治は、ますますそうした動きを強めています。その方が多くの人々の納得が得られやすい。そのようにして、この社会には、人々の意識が反映されたものとして、様々な文脈ができあがっています。その一つ一つを、自分なりの文脈に解釈し直して生きていこうとすると、至るところで立ち止まらなければならないので、そうならないように、既成事実として受け止めて生きていくのが、多くの人にとって普通のことでしょう。
 また、自覚的に一つ一つのことに頑固に立ち止まることで感じられる摩擦や軋轢を、表現の力にする人もいるでしょう。
 しかし、海老原さんは、この社会の文脈のなかを、もっと自在に出入るする回路を手繰り寄せようとしているように感じられます。理想と現実、自己と他者、自己と社会(世界)を対立的に配置するのではなく、といって、自己の世界に閉じこもって内向きに生きるのではなく、自己と他者、内と外のズレやシンクロの絶え間ない繰り返しを、現実的な生のリズムと捉えているのではないでしょうか。
 円周率のように無限と続く割り切れなさ。円は、宇宙が作り出したのではなく、人間がその概念を作り出したのだと私は思っていますが、世界と向き合って、意識して分析する癖のある人間は、不思議なことに、永遠に続く割り切れなさに、円という調和形を見出しました。
 終わりのない運動。それをネガティブにとらえるか、美ととらえるか。
 区分できない領域。それを消極的に受け止めるか、積極的に生かすか。
 両者を分かつものも、この社会の一つの文脈にすぎません。その一つの文脈に絡めとられることは、人間である以上しかたがないですが、ずっとそのままでいられないのも、人間なのだと思います。

 まあ、実際に、私は、まだ何もよくわかっていない。まったくの見当違いだと笑われるかもしれない。しかし、「わかっていない」と言う人がいれば、その人もまた、一つの文脈に絡み取られているだけのこと。
 シンクロとズレは、私と海老原さんの間でもあるでしょうし、だからといって、それですべてが決定するわけでもないでしょう。

 



 

~表現の行き先~ 細江英公 森永純 田口ランディ 公開トーク

『風の旅人』 公開トーク 開催

  <テーマ>表現の行き先 (仮題)

 

日時/12月13日(日) 13時30分~

場所/永田町 砂防会館 別館 3F 立山会議室 (定員100名)

  東京都千代田区平河町2-7-4 砂防会館別館3階

 

第一部  開場13時。開演13時半~15時 

 細江英公 森永純 田口ランディ              進行役 佐伯剛  

第二部  15時半~16時半   中藤毅彦 有元伸也 他、計画中  進行役 佐伯剛  

 

入場料 2000円

*入場者には、森永純さんの作品が掲載されている『風の旅人』第34号と第35号の2冊を進呈致します。どうしても他の号を希望の方は、17時の会の終了後(午後5時~)、編集部(徒歩3分)にて、交換致します。

また、細江英公さんの新作が掲載される『風の旅人』第39号(2/1発行)の予約を行っていただいた方は、定価で1200円のところを1000円(送料込)で販売致します。

 

予約制:申し込みは、shuppan@eurasia.co.jp まで。

「12/13日公開トークに参加希望」と明記の上、住所、氏名、電話番号、メールアドレス、参加人数を記入の上、お送りください。

 定員になりしだい、ホームページ上でお知らせします。

 

<趣旨>

昨年の金融危機以来、大手メディア各社は軒並み困難な状況にあり、今後、大手メディアに依存する表現活動の可能性は、これまで以上に軽減するのは間違いありません。また、作品の価値を権威づける力の退行と同時に、自主ギャラリーやネットをはじめ表現の場が様々な形で台頭し、デジタルカメラの技術発展もあって、表現におけるプロとアマチュアの垣根も無化されつつあります。

さらに、日本と海外のあいだの距離も急速に狭まり、表現においてもボーダレスな活動が、当たり前になりつつあります。

しかし、世界が一つにつながり、様々な表現が日常的に溢れかえるようになってくると、その洪水のなかに、あらゆるものが埋没してしまいます。誰もが“面白いこと”を求めながら、その”面白さ“が次の瞬間に消費され、記憶として残り続けるものになりにくいのです。

細江英公さんや、森永純さんが40年以上も前に取り組んでいたものは、今見ても、古さをまったく感じさせません。一つのテーマに長い間じっくりと取り組んでいても、人を飽きさせることのない深さを秘めています。

また、日本か海外かに関係なく、真の意味でグローバルな普遍的な魅力を湛えています。

それはいったい何故でしょうか。 

表現は個人的活動でありますが、自分のアンテナだけで、時代を超えて、また国境を超えて、つながっていくことができる。その力は、いったいどこから来るのか。

細江英公さんの写真活動の軌跡は、1959年のVIVO以来、大手メディアに迎合しない写真表現の自立性を目指したものであり、後のヤングポートフォリオでの新人発掘においても、その精神は遺憾なく発揮されており、個人の表現者としても、社会的な牽引者としても、その姿勢は一貫しています。

森永純さんもまた、大手メディアには一切媚びることなく、その為、作品発表の機会が極端に少なくなろうとも、軸のぶれることのない長年の活動によって、次世代の写真表現者達の尊敬を集めています。このお二人が中心になって、1970年代の前半に大手メディアの権力に屈することのない表現発表を行うため、現在では当たり前になっているギャラリーでの個展活動の動きを作り出したことは、メディアがそれを伝えていないこともあって、若手写真家のなかで知らない人も多いでしょう。

お二人に共通していることは、日本の写真業界の因習に閉じこもらず、かといって欧米に媚びたり安易に模倣するわけでもなく、自らの表現を深く掘り下げることで、国際的に通用する普遍性に到達していることです。

グローバルスタンダードという形ばかりの標準化の動きが顕著な時代において、自分の持ち味を一心に磨き、結果として海外の作品に一切見劣りすることなく、個性を発揮しながら欧米文化とも調和が可能であるということを、二人の作品は証明しています。それが海外での高評価につながっており、彼らが獲得している評価は、物珍しさや東洋趣味による日本ブームは別のものです。

また、作家の田口ランディさんは、日本では人気作家の地位を既に築いていますが、近年、イタリア、ルーマニア、中国など、様々な国々での翻訳本が発行されています。

日本の出版マーケットでは、内容を深く掘り下げていけばいくほど販売部数が減ってしまい、瞬間的に楽しめて気軽に消費できるタイプのものを作家に求める傾向があるそうですが、彼女は、そうした現在の日本社会の表現者のポジションにも深い問題意識を持っています。

また、田口ランディさんの作風を、日本の文壇社会では“ポップ文学”として捉える向きもありますが、海外における評価はまったく違い、今日の世界が根本のところで共有する課題に深いところで向き合っているシリアスな純文学作家という位置づけなのです。

文学か写真と表現の方式は異なりますが、細江英公、森永純、田口ランディという3人には、共有するところが多くあります。

依然として大衆メディア時代の慣行が残っている日本社会ですが、その部分を今さら分析しても何も始まりません。これからの表現活動がどのようになっていくかということを、今回のトークでは希望を織り込みながら話し合っていきたいと思います。

2009年11月 5日 (木)

世界が変わる兆し

トヨタがF1から撤退することが大きなニュースになり、担当取締役の泣き顔が新聞に大きく掲載されていた。相変わらずのメディアらしい仰々しい演出だ。

この件については、トヨタの取締役会で激しい議論が重ねられてきたとニュースに書いてあった。しかし、かなり以前にトヨタのPR関係の仕事をしている友人から聞いた話だと、創業家から来た豊田章男社長は、社長に就任以来、これまでの体制の中で続けられてきた仕事に執着する取締役に対して、かなり厳しい対応を取っているということだった。

そのため、その友人もPRの仕事の多くを失った。従来のように、莫大なお金を使ったイベントでディーラーに発奮を促したり、派手なPRといった大手広告代理店が主導する手法に依存するのではなく、「良い商品を、手頃な値段で、早く作れば、それだけで十分に売れる」という考え方になっているのだと聞いた。そして、友人には気の毒だが、トヨタの判断としては間違いないと思った。

実際に、自動車産業が不振と言われるなかで、新型プリウスは爆発的に売れた。納車待ちが9カ月になってしまったが、この期間がもっと短ければ、さらに販売を伸ばせただろう。ディーラーも、この不況下で、発破をかけられなくても必死になっている。彼らの望みは、「売りやすい商品」であり、宣伝やイベントのコストを車体価格から引いてもらった方が、販売しやすく歓迎だろう。

ガソリンから電気へと、車産業にとって100年に一度の大変化という言い方がされるが、車が変われば世界も大きく変わる。それは単に環境問題だけでない。これまで石油を中心に整備されていたインフラが電気に変わると、パワーバランスも大きく変わるだろうし、何よりも、人間の潜在的価値観に対する影響が大きいと私は思う。

大手メディアが、「人々に夢を与えるF1からの撤退は寂しい」というような論調で伝えていたが、大手メディアが中心になって、F1を夢のような存在に作り上げていただけのことだ。

F1が日本で最も注目を浴びていたのは、1980年代後半のバブル絶頂の頃だった。マハラジャのお立ち台のように自らの“爆発力”を誇る時代だった。その時期、日本のホンダのターボエンジンを積んだマシーンが連戦連勝していたが、欧米社会のプライドと防衛意識のためか、エンジン規制が行われて、ホンダエンジンの圧倒的な力が殺がれた記憶がある。F1には、欧米社会の貴族階級意識が色濃く感じられる。

20世紀、世界中の人々を虜にしていった欧米文明には、魔性の魅力がある。暴飲暴食をすれば身体に悪いことがわかっているのに、派手な性悪女(男)と一緒になれば酷い目に合わされることがわかっているのに、自己破壊的な欲望を刺激されて、のめりこんでいってしまうように、F1マシーンの爆音とか、ガス爆発エンジンの極限まで追求するような姿勢は、どこかでそこにつながっている気がする。だからバブルの狂乱とマッチしたのだ。

そうした自己破壊的な性質を人間が普遍的に併せ持っていることは間違いない。古代からディオニソスの祭典のような憑依的な狂乱状態は世界各地の社会構造のなかに組み込まれ、そうした時々の自己解放的祭典が、理性の力に頼ってそれに縛られて生きる人間の心身のバランスに必要なことなのだ。

しかし、その解放の手段として、F1マシーンの“爆発力”のようなものを求めたのは、実は20世紀の価値観に知らず知らず支配されていたからだと私は思う。

20世紀の人間は、この宇宙における最大の力は、爆発であるとイメージしていた。

最先端科学を結集した宇宙ロケットの開発も、エンジンの爆発力を高めることと、その爆発力を支える構造の強化が最大の課題だった。そして、爆発のエネルギーというものは、自己の内側に蓄えられ、それが外に向かって放出され、運動エネルギーに変わって終わるものだと、誰もが素直に信じていた。ゆえに、場を活性化させるためにも、“爆発”を求めたのだ。「爆発があれば、活性化しているようにイメージできて安心する」と言い変えた方がいいかもしれない。

こうしたイメージが、星の輝きのメカニズムとして理解されているし、宇宙誕生のビックバンにも通じる。20世紀の価値観のなかで、活性化とは爆発なのだ。

人間が考えることは、自らの中に潜在的に植え付けられているイメージから無縁でいることはできない。世界とは、人間が認知する範疇の出来事であり、認識が変われば世界も変わる。

そして今、少しずつではあるけれど、人間自身と環境世界の相互関係を通して、認知世界が変化してきているような気がする。

爆発力に頼って大きなエンジン音を立てるガソリン車から静かな電気車への変化は、そうした意識変化を大きく加速させることになると思う。力というものが、“爆発”のような、これみよがしな派手なパフォーマンスによるものではないということを当たり前のこととして感じ、活性化とは、“爆発”のような目に見えて賑々しい現象とは限らないと知るようになるだろう。“爆発”が無いと寂しく思う心理もまた、20世紀的な価値観のなかで作り上げられていただけだと多くの人が気づくのだ。

 それゆえ、“爆発的”なイベントや宣伝で、“爆発的”にヒットすることが、“力の発揮”だと思い込まされていた時代は、もうまもなく終わることは間違いない。

もちろん、派手な爆発=力の象徴という価値観だからこそ優越的な立場に立てた人達の自己防衛としての抵抗は生じる。

しかし、メディアが、トヨタのF1からの撤退を大きく報じ、キャスターが感傷的なことを述べても、多くの人にとって、どうでもよいことのように伝わっているのではないか。もはやF1のテレビ中継を楽しみに待っている時代ではないのだ。

“ガス爆発”から、“電気”へと、私達の周辺でインフラが整えられ、投資も増え、さらに新しい発見が繰り返されるようになる。

いつの日になるかわからないが、電気の取り出し方が、劇的に変わるのではないかと私は予感する。現在は、火力発電所をはじめ爆発力によって電気を取り出し、それを貯めて使って、無くなれば貯めるという、20世紀の爆発型エネルギー構造の延長にある。

電気は、そのように動力によって作り出すものだというイメージが定着している。しかし、極北のオーロラは、動力によって光り輝いているのではない。太陽から吹き付けてくる陽子が地球大気(分子や原子)にぶつかり、それらを励起させ、電荷を帯びて過剰で不安定なエネルギー状態になったイオンが、元の安定した電気的中性状態になろうとして、過剰なエネルギーを光として放出している。つまり、地球は、太陽から熱とか光だけでなく、電気エネルギーも受け取っているのだ。

私達は、太陽の爆発力によって生じる熱や光を受け取っていると信じているが、もしかしたら、私達が受け取っている光や熱は、太陽から降り注ぐ莫大な量の陽子の電気エネルギーが転換したものかもしれないではないか。

まあそういう私個人の夢想はいいとして、エネルギーというものは、作りだして蓄えて消費するものではなく、(電気的)相互関係のなかで常に生じ、受け渡され、戻ってくるという循環システムの中に位置づけられるものであることに、少しずつ人々の意識が変わってきていることは間違いないだろうと思う。そういうイメージが当たり前のことになっていくと、きっと人生観も世界観も変わっていく。

その時、上に述べたような、理性の力に頼ってそれに縛られて生きる人間が、心身のバランスを得るための、“20世紀型の爆発的なこと”以外の方法が、そこに必然的に発生する。メディアが牛耳る社会の表層では見えにくいが、既に、それは発生している。

それは、“出会い”に関することではないかと私は思っている。

人は誰しも自分の場を持っているが、これまでの“出会い”は、その場のなかで、ある程度予想された範疇で完結的に閉じていくものが多かった。

しかし、インターネットの驚くべきインフラ整備により、自分の場のなかに、多くの要素がややこしく絡み合ってくるような状態になってきた。そうした複雑系状態を拒み、対称形で整理された意外性のない環境に閉じこもっていたい人もいるが、むしろ非対称性の複雑系環境の中で予測不可能性を楽しめる心得が出来ている人が増えてきた。なぜ非対称の新たな関係が楽しいかというと、対称性の中に閉じたわかりやすい関係では想定できていなかった、より高次の何かが生まれることがあるからだ。

対称性のなかでは、1+1=2でしかなく、部分の総和が全体だった。しかし、非対称の場合は、1+1=2とはまるで違うものになっていく。

私は、「風の旅人」を作る時は、常にこの感覚を大事にしているのだが、そのスタンスで臨んでいると、自分の想定を超えたものが生まれる。そうした自己超越が、20世紀型自己爆発にとって変るものになるような気がする。

いろいろな局面で、非対称性の出会いが生じやすい環境になってきていることは間違いない。そして、そういう状況は、対称性の予測可能世界を頑なに守ろうとする保守感覚の人にとって非常に抵抗感のあることで、彼らによって、予測不可能性の危険性が大きく主張される。

しかし、非対称性の出会いが生む高次の変位は、経験を通してしかわからないものであり、既にその感覚がわかる人は、潜在的に数多くいるだろうと思う。

 



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