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『風の旅人』 vol.39

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2009年12月

2009年12月14日 (月)

「風の旅人」公開トーク 〜表現の行先〜を終えて。

 

昨日、「風の旅人」公開トーク、「表現の行先」を、無事に終えることができた。

 140名の人達が狭い所に集まり、3時間を超える長丁場に関わらず集中を切らすことなく最後まで付き合っていただき、有難うございました。

今回は、細江英公さん、森永純さん、田口ランディさんといった、ただならぬ人達にご登場いただき、さらに中藤毅彦くん、有元伸也くんという、これからの時代を担っていく写真家をくわえて、「表現の行先」という、とても抽象的で深遠なテーマを掘り下げていこうと思ったので、進行役として話を整えていくのが難しかった。

時間の配分とかに気を使い、話が大きく脱線してしまわないように注意し、といって小さくまとまってしまうと面白くない。などと一人で色々思案すると、どうしても気持ちの余裕がなくなってしまう。今回は、幸いにも田口ランディという心強い助っ人がいて、トークの趣旨を深く理解したうえ、要所要所で極めて有効な言葉を差しはさんでくれ、全体を揺さぶりながら緊迫感のある統合を目指す波を作ってくれた。

進行役も含めて6人もの人間が舞台にあがると、それぞれが自分の領域だけ語って、それぞれの言葉が響き合わずに終わってしまうということがよくある。

”場“というのは一度限りの体験である。その場で発せられた言葉を幾つかメモして、分析することが目的なら、本を読んだ方がいい。私としては、「その時間、その場所にいることができて、本当によかった」という体感を生じさせる力こそが”場の力“だと思う。

単純に役に立つ情報を得るのではなく、空気を体験することで、脳と全身がシャワーを浴びたような感覚。

凄い人というのは、その人がいる空間を共有するだけで、脳内シャワーを浴びたような感覚になるものであって、その力を減退させるようなことだけは、ぜったいにやってはないらない。私が雑誌づくりにおいて神経を使っているのも、その一点に尽きる。

細江英公さんと森永純さんというのは、根本のところでは同じものを持っているのだが、その表出の仕方が全てにおいてまったく正反対であり、この二人のコントラストを傍で見るだけでも、人間存在の奥行きとか幅を強烈に感じる。

「わが道を行く」という言葉は、言うだけなら簡単に言えるが、それを70歳の後半になっても現役で貫きとおし、さらにエネルギーに満ち溢れ、かつ他者を慮ることのできる懐の大きさを持っている人は、稀有だ。

そういう人達のオーラを傍で感じられただけでも、幸福な時間だったと思う。 

また、イベントというのは、発信者側だけでなく、受信者側が発するオーラの影響も受ける。発信する側も人間であり、受信する側が作り出す空気に無意識のうちに影響を受けるものなのだ。とりわけ表現者たちは、自分が発信するものが受信者とどう呼応しているかについて、とても敏感なところがある。受信者側からオーラがはねかえってくることで、さらにポテンシャルがあがる。また逆に、相手を拒絶したり斜めに見るような負のオーラを発散している人と向き合うと、とたんに自分の中の電圧も下がってしまう。

もちろん、細江さんや森永さんの境地になれば、他者の反応の影響をマイナスに受けることはないが、そういう人達は、プラスの電力ならば強力な磁力でガンガン吸収し、テンションはどんどん高くなるのだ。

今回のトークは、3時間半のあいだ、途中で帰る人は一人もいなかった。このような聞き手の集中力と前向きの熱気は、敏感に伝わってくる。

森永さんが、原爆体験のことを自らの言葉で語り出したことに私は驚いた。

ドブ河と波という、シンプル極まりない被写体と、永遠の時間とも言える時空間のなかで向き合ってきた森永さんの核の部分が、その一瞬だけ放たれて宙に消えた。書き言葉ではなく、語り言葉が生命を吹き込む公開トークにおける、かけがえのない瞬間だ。

「表現の行先」というテーマを掲げていた以上、このトークを通じて目指していたところはある。

それは、いみじくもトークの最後に聴き手側から発せられた質問が、象徴している。

撮ろうとして撮るのではなく、撮れてしまう写真。書こうと意図して書く文章ではなく書けてしまう文章。小賢しい人間の理性分別の範疇で表現をコントロールするのではなく、表現者当人にとっても一つの啓示であるかのように、自らの存在を問われるように、自ずから表出する表現。そのうえで、社会および他者に開かれている表現。

自分の知識や技術を披露したり、大衆受けを狙うような、わざとらしい作為表現の残骸が氾濫する現在において、こんがらがってほどけなくなった意味の結び目を、丁寧に解きほどいて、本来あるべき状態に結び直そうとする意思と気合いと根気のある表現。

それを、当人は、無意識に成し遂げてしまう表現。

そういう表現を生みだすために、日頃どういうことに配慮すべきか、という質問が最後に投げかけられた。

その問いに対する一つの正しい答えを出すことが今回のトークの目的ではなく、重層に積み重なった言葉の中から、一人ひとりが、この時代に生きる個人として、どういうことが大切なのか嗅ぎ分け、それを自分流に消化していくこと。そのきっかけになるかもしれない場を大切にすること。安易な答に頼ることなく、自分のアンテナの精度アップをしていくこと。そうしていこうという前向きな気持ちが少しでも芽生えたならば、それで充分。表現の行先は、評論家の客観的分析のなかに正しい答があるのではなく、一人ひとりの心のなかに生じる、ある種のベクトルのなかに少しずつ準備されていくものだろうと思う。

 

 

 

 

2009年12月10日 (木)

東京オリンピック招致活動に関して

5億円の映像

http://www.youtube.com/watch?v=O7E7eOPh7ko&feature=player_embedded

ちなみに、「おくりびと」は1億円、魔女の宅急便で4億程度らしい。

http://0913kaiza.blog89.fc2.com/blog-entry-264.html

 もはや、こういう矛盾は、直接当人達に伝わらない方法で不満をぶちまけるだけ済ます時代でなくなっていると思う。
 とりあえず、都庁の、オリンピック招致実行委員会の方だと無視されそうなので、予算一課の方にメールを送った。
メールアドレス↓
S0000060@section.metro.tokyo.jp

 下記のことさえできないようであれば、”やましいこと”があるからと判断せざるを得ない。

東京都庁
予算一課
担当者どの

五輪招致活動において、
1.5億円もかけた映像を、何らかの方法であらたに一般公開して(お金をかけない方法、ホームページでも構わない)、5億円の価値があるものかどうか都民の判断を仰ぐ機会を設けることを、一都民として要望します。
 ちなみに、
2.スピーチ原稿において、あらたに一般公開して、その翻訳に5千万円も必要なものかどうか、都民の判断を仰ぐ機会を設けることを、一都民として要望します。
3.スピーチの背景に流すスライドにおいて、新たに一般公開して、その制作に2千万円も必要なものかどうか、都民の判断を仰ぐ機会を設けることを、一都民として要望します。
4.スピーチ全体を、あらたに公開して、その内容が、一日60万円のコンサル料を支払う価値があったものかどうか、都民の判断を仰ぐ機会を設けることを、一都民として要望します。
5、60億円もの大金を電通に、コンペもなしに発注したことについて、納得できる説明を要望します。

上記の金額について、最小の経費で最大の効果を得られるよう工夫を凝らしたつもり、という、世間知らずな都知事の発言がありますが、
この金額が、なにゆえに最小の経費ということになるのか、誰もが納得できる説明を、一都民として要望します。

上記の要望を実行するのは、さほど難しいことではない筈です。税金で行っている以上、当然なすべき対応だと思われます。
もし、それができないのであれば、やましいからであると判断せざるを得ません。
早急なる返答を求めます。

佐伯剛

出会いの不思議(続)

私が大学に入学をしたのは1980年。この世代は、シラケ世代といわれ、田中康夫が、ブランド名をくどくどと書き連ねた「なんとなくクリスタル」が大流行した。

 私より10年前に生まれた大学闘争の人達は、社会のことや、人生のことを熱く語り合うことが当たり前だっただろうが、私の時代は、そういうこととは距離を置いて、刹那的に、今を楽しく生きるというムードが広がりつつあり、大学生のあいだで、スキーやテニスが大流行した。時代は、バブルに向かって、盲目的に熱狂し始めていたのだ。

 そういう流れから距離を置いている人も当時の大学の様々な場所に潜んでいたと思うのだが、現在のようにインターネットもなく、サークルなど具体的に存在する場所で人と接し、そこでつながっていくしかなかったのだ。

 同じ時代の、同じ大学構内にいた人で、大学の雰囲気になじめず、中退したり海外放浪に出かけた人と社会人になってから出会い、なんだ、あの時あの場所にいたのかと親しくなった人が何人かいる。

 私は、茨城県のド田舎に建設された異様な大学空間の寮に住んでいた。あの頃、あの場所で、拗ねた目で周りを見ていた者は、だいたい同じような記憶を共有している。

 ただ残念ながら、大学にいる時に、彼らとは出会うことができなかった。もし出会うことができていれば、大学生活をもっと楽しく過ごせたかもしれず、中退などしなかったかもしれない。

 インターネットの弊害については、有識者がいろいろ好き勝手なことを述べているが、私のように、集団の雰囲気に溶け込めない少数派が孤立してしまわず、出会うべくして出会える相手を発見できるツールとしては、とても有効だろう。日常的に活動する場で、そういう相手を見つけ出すのは、とても難しいことだから。

 しかし、めったにないことだが、インターネットのない世界でも、ごく稀に、自分の日々の活動範囲のなかで奇跡的に出会いが実現することもある。奇跡的な出会いというのは、単純に気が合うとか、一緒にいて楽しいとかの次元を超えたもの。生きていくうえで誰もが持っている頼りないベクトルのラインが、相手のラインと捩り合って、より太く強固なフィラメント状態になる瞬間なのだ。実感のある言葉で言うならば、「勇気づけられる」とか、「自分も頑張っていこうという気持ちになる」とか「触発される」とか。それは、その人と一緒にいて安心ということではなく、そういう出会いが必ずあるものだと知ることで、独りで生きていくことの覚悟ができる感覚なのだ。

 だから、その種の出会いは、一瞬の電光石火のようなものでかまわない。一瞬が、自分のなかでは永遠になる。

 20歳の頃の私は、大学内の集団的喧騒状態に辟易していた。適当に話を合わせて、あとは盛り上がろうぜ!みたいな雰囲気の集合から抜け出して、国内を彷徨っていた。その途中、会津のユースホステルで出会った25歳の人に触発され、海外に出ることを決意していた。その人の名前は覚えていないけれど、三人だけが宿泊していたユースホステルで、遅くまで語り合ったことは鮮明に憶えている。

 孤独だったからこそ、そういう一つ一つの出会いが、深く記憶に刻まれている。

 今回、Twitter経由で27年ぶりにつながった松井君との、たった一日の出会いも、同じだ。

 その時、私達は、日通の引っ越しのアルバイトをしていた。その引っ越しは、毎日、数多くの現場があった。何日かアルバイトに通っていたある日のこと、自分の持ち場の引っ越しが終わった後に、別の現場のトラックがバイトをピックアップするためにやってきて、その荷台に乗りこみ、そこで松井君と出会った(のだと思う)。

 何をきっかけにして話をはじめたのか憶えていない。松井君がTwitterに書いているのを見れば、トラックの荷台に乗って事務所に戻るまでの短い時間に、何か互いに感じ合うものがあって話が始まったらしい。どちらが誘ったのかも忘れたけれど、事務所で私服に着替えた後、神戸の喫茶店で長い間、話し込んだ。

 当時、日通のバイトはたくさんいたが、私は他の誰とも気が合わず、バイトの後、一緒に時間を過ごしたのは彼だけだった。飲みにいかずに、喫茶店に行ったのは、旅の資金を必死に貯めていたからだと思う。

 それにしても、一瞬にして感じ合う力というのは、いったい何からくるのだろうと思う。たった一日の出会いの後、お互いにまったくべつべつの道を歩いてきたのだが、現在、彼が行っている表現や世界観を見ると、私のものと同じではないのだけれど、何か響き合うものを感じる。http://idream.exblog.jp/i7/

 つまり、人の潜在意識は同じものを求めているのではなく、自分の中に欠けている何かを補いたいと欲していて、そいつが強力なアンテナになっているのではないかと思うのだ。

 もちろん、人は自分と同じものも欲し、同じものと接することで安心を得る。しかし、そういう感覚は、安心して満たされて、その後の展開が見えない。それに比べて、自分の欠けているものを求める衝動は、ひたすら続く。

 自分のなかで欠けている部分こそ、意識しようがしまいが、常に気になり続けている領域である。

 私が、当時の松井君に感じたものが一体なんだったのか、それはわからない。ただ、私は、彼といろいろ語り合いながらも自分が根なし草であることを強く自覚していたと思う。世間の流れから一歩置いたところで生きていることは彼と同じだったが、彼には“音楽”があった。私は、私にいったい何があるのかを探し求めて、旅をし続ける必要があった。私が当時一番欲していたものは、自分が何者かであることを自分で証明するためのものだった。それゆえ世間がお墨付きを与えてくれるものは、むしろそれを見えにくくすると危機感を感じた。だから自分をドロップアウトに追い込んだ。そのことは今もよく覚えている。

 裸になって荒野を彷徨うこと。そこにしか自分の道は見出せないと、私は必死の思いだった。松井君が、音楽を選択し、それを続けていくこともまた荒野を歩くこと。その部分で2人は共通していたが、私に欠けているものは、荒野を歩いていくための心の拠り所だった。だから、彼が語る“音楽”を、20歳の私は、羨望しただろうと思う。でも、彼もまた、私と同じように荒野を歩いていく覚悟を持っていると感じたから、その羨望は妬みにならなかった。

 海外を放浪している最中、一度か二度、私は彼にハガキを送ったらしい。おそらく、10のうち9の時間はネガティブな気分に侵されていたとしても、たまに訪れる気分が晴れやかなポジティブな自分を、彼に伝えたのだろうと思う。そのようにしなければ、自分を前に進ませることができない時って、あるものだから。

 

 

 

出会いの不思議

 今日、一通のメールが届いた。

「今から、30年ほど前のことです。神戸で、日本通運の引っ越しのバイトをしておりました。偶然一緒になった、同じバイトに、佐伯剛さんと言う方がおられました。僕は、バンドをやっており音楽への路を歩むことをお話し、佐伯さんは、ジャーナリストにと。その頃の、彼の愛読書は、坂口安吾。たった、一日の出来事。何時間も喫茶店(確か、三宮の)でお話をしました。確か、その直後、旅に出ると言われていたと思います。・・・・・・・」

 正確に言うと、27年前、1982年の4月、私が20歳の時だった。大学を辞めて海外に旅立つことを決心して、アルバイトをしながらコツコツをお金を貯めていた。

 出発直前、神戸の三宮で、一ヶ月ほど日本通運の引っ越しのバイトをしていた。その時、めぐり会わせで、たった一日だけ、妙に気が合って、バイトが終わった後に喫茶店で長々と話し込んだ。一緒の現場に行った人かどうかは覚えていない。どういうきっかけで話し始めたのかも覚えていない。そのバイトの期間中、仕事の後で話しをしたのは彼一人だった。だから、たった一日の出会いでも、よく覚えている。はっきり言って、当時の若者文化のなかで私は浮いていたから、引っ越しのバイト先で親しくなれるような人はいなかったのだ。

 あれから27年が経過した。27年も前に、たった一日だけ話し込んだ人と、twitterを経由してつながるなんて。

 この27年の間に、様々なことがあったようにも思うけれど、なんだかつい最近のことのようにも思えてしまう。

 私は、ジャーナリストにはならなかったが、彼は、音楽活動を続けている。

 私は、当時、広河隆一さんの「パレスチナ」に少し感化されていた。広河さんはイスラエルのキブツで働いている時に第三次中東戦争が始まって、それ以来、パレスチナ問題を中心にジャーナリズムの仕事をするようになる。私は、広河さんと同じことをしても仕方が無いと思い、放浪の途中にチュニジアに滞在し、ブルギバスクール(だったと思う)という、外国人を受け入れてアラビア語を教えてくれる学校にもぐりこむ計画を立てていた。そして、実際に、連日50度を超える猛暑のチュニジアでアラビア語を三ヶ月間必死に勉強した(が、まったくものにならなかった)。

 その広河さんとは、「風の旅人」を創刊した頃、何度か一緒に仕事をした。そして、彼がDAYS JAPANを創刊したいと相談してきた時、私もいろいろお手伝いをした。この前、DAYS JAPANの創刊6周年のパーティーがあった時、スピーチをするように言われたので、私と広河さんは考え方が違うけれど、今日のメディアや雑誌の状況に一石を投じたいという思いで雑誌を立ち上げたことでは同じだ、という話しをした。その日、パーティから帰宅する時、なんだか縁というのは不思議だなあと思った。

 また、親しくしている田口ランディさんと私は、偶然にもバブル絶頂の頃、某化粧品会社を相手に仕事をしていて、バブル崩壊の時に同じように辞めていたことを後で知って驚いた。彼女は、美容部員の採用ツールを作っていて、私は、美容部員の教育ツールを作っていたのだった。

 それ以外にも、書き出すときりがないくらい、不思議な縁はたくさんある。世界は広いようで、なんだか不思議なくらい狭いものだ。

 出会うべくして、人は出会うようになっているのだろう。



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