『風の旅人』第38号(2009年10月1日発行)について
テーマ 彼岸と此岸①
時の肖像
近代的価値観の上に築かれている社会で生きている私たちは、教育やメディアの影響もあって近代的思考の枠組みに閉じ込められ、近代の枠から外れたものを、「古い」、「例外」、「得体が知れない」等と整理しがちです。
しかし、たかが数百年の近代世界こそが人類の長い歴史から見れば「例外」で、その枠組みじたいが、もはや「古い」可能性もあります。
近代の枠の中を「此岸」とすると、そこに入らないものは「例外」ではなく、近代から見て「彼岸」、つまり「近代的な視点では理解できない世界」、もしくは「人間が記憶の彼方に置き忘れた世界」にすぎないとも言えます。
近代に確立された自己中心の狭い尺度から世界(他者)を捉える視点ではなく、広大深遠なる世界(他者)の側から自己を捉える視点を持つことさえできれば、世界は、まるで別のものに見えるかもしれない。視点の違いによって、世界観も人生観も異なってくるということを、第38号から「彼岸と此岸」というテーマのなかで具現化していきたいと思います。
その第1回は、「時」というものの、捉え方です。
「あの時はわからなかったけれど、今ならわかる」というように、視点が変わることで、過去の出来事が書き換えられることがよくありますし、記憶の彼方に置き忘れていたものが、何かをきっかけにして、とても大事になることがあります。また、現在の状態に行き詰まっている最中、ふとした出会いや、ふと想い出したことが、未来の鍵を運んでくることがあります。
そのように、過去と未来は、人それぞれの”今”の状況と視点に応じて、その都度、姿を変えて去来しています。
私達は、近代社会のなかで、”時”というものが動画のように過去→現在→未来の方向に自動的に流れていくようなイメージを植え付けられていますが、未来は、”きっかけ”とともに始まり、その”きっかけ”の到来を私達は常に待っているとも言えます。さらに過去もまた、”きっかけ”とともに浮かびあがり、その時々の意味を持って、未来とつながっていきます。そして、私達が無意識のうちに準備を整えて待っているからこそ、それらの”きっかけ”が、宿命的な出会いのように感じられます。
これから来る「時」とつながる”きっかけ”が見える状態になって初めて、人間は未来という時間を知るのであり、その”きっかけ”を自分で発見する準備をせずに権威が定める正しい答に依存しすぎると、いくら情報を集めても、未来が見えないまま止まることになるのでしょう。
また、時の認識の仕方は、対象との距離によっても異なってきます。
状況変化の真っ只中にいると、”時”は、激流のように感じられるかもしれませんが、距離が遠ざかっていくと、宇宙から地球を俯瞰して見る時のように、動きは次第に静止し、一つの画のようになっていきます。
時の経過とともに対象との距離が遠ざかって一つの画のようになっていくのであれば、近代世界全体がそのように見える時点がどこかにあるかもしれません。
対象に近づけば近づくほど激しく流れ、遠ざかると静止しているように見える。そして、さらに遠ざかると、他のものとの相対的な位置関係が見えてきて、広がった視界のなかで新たな対象を発見して再びそこに近づいていく。人間は、そうした視点の変遷を何度も行い、生の時間を、一枚の画と感じたり、激しい流れと感じたりしながら、生きているような気がします。
2009年10月 第38号 彼岸と此岸① 時の肖像
≪写真≫
◆原始の記憶 写真/北義昭
◆原始の記憶 写真/大西成明
◆モーメント、モニュメント 写真/森永純
◆THE BIRDS 写真/Paolo Patrizi
◆光跡/追憶・・ 和歌山 写真/ヨハン・オーカタ
◆古と今の世界 写真/ 久保田博二
≪小特集≫
◆電気の宇宙⑧ 太陽 文/デビッド・タルボット
◆縄文のコスモロジー① 縄文の人間学 文/酒井健 写真/滋澤雅人
≪文章≫
◆斜線の旅/管啓次郎
◆いまここで、あるいは、ここではないどこか/田口ランディ
◆犀の角問わず語り/姜信子
◆暮らしと信仰/前田英樹
◆旅人の心得/皆川充
◆意識の地図/蛭川立
◆見ようとする意思/小栗康平
◆彼岸と此岸/ 望月通陽


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