昨日、恵比寿で少し時間が空いたので、東京都写真美術館で開催されていた「 オン・ユア・ボディ」展を見る。日本の新進作家というふれこみだが、まったく心が動かされることはなかった。
この展覧会趣旨は次のように書かれている。
今回開催する『オン・ユア・ボディ』は、〈身体〉がテーマです。〈身体とジェンダー〉という問題については、ここ数年で急速な変化を遂げています。特に、女性の意識変化は大きいでしょう。特徴的なこととしては、女性の社会進出と晩婚化、少子化というところに表れています。女性たちの意識がグローバル化し、欧米並みに精神の自立が成されているのにも関わらず、社会のシステムがそれに追いついていない現状から起こっているのです。さらにインターネットが普及し、社会にヴァーチャル化されたネットワークが誕生したということ。瞬時に同じ情報がいきわたる現代社会のなかで、私たちの意識としてもヴァーチャルリアリティーが現実と同じくらいに重要になってきています。
そのようななか、〈身体〉というのは最後に残された自分自身がコントロールのきく場であり、現実との戦いの場。その実感として、女性の意識の変化のなかで身体への関心が高くなってきていると思うのです。例えば、女性がメイクをしたり、スポーツクラブに通ったり、ダイエットに励むといった見える部分だけでなく、もっと内面的な問題を表現するための身体への執着心に焦点をあてたいと思ったのです。
まずもって、この文章で伝えようとしていることが、浅はかのように感じられる。「女性の社会進出と晩婚化、少子化」は、ここ数年の急速の変化ではなく、この数十年で、少しずつそうなっていた事態だ。そして、「女性の意識のグローバル化」というのは、どういうことを指しているのか。何をもってグローバルと言っているのか? 単に海外に行く女性が増えているということなのか?
また、「欧米並みな精神の自立」というのが、どういう状況を指しているのか。それに追いつく社会システムというのは? なにゆえに、欧米を基準にしなくてはならないのか。欧米風の精神の在り方が、そんなに有難いものなのか? 今だに、欧米に追いつき、追い越せ的な発想でしか物事を見られないのだろうか。新しさを装いながら、時代遅れの典型的な思考ではないか。
さらに、「私たちの意識としてもヴァーチャルリアリティが現実と同じくらい重要」というのが、何を言いたいのかよくわからない
文章では、勿体付けた言い方をしているが、簡単に言ってしまえば、「自立して働く女性が増えているけれど、安心して子供を産んで育てる環境ができていないということと、現実生活だけでなくネット上から様々な情報および経験を得ている」ということにすぎないのではないか。そう書いてしまうと知的に見えないので、言葉を装飾しているだけではないか。
そして、「思うようにならない社会の現状」に対して、<身体>が最後に残された自分自身がコントロールのきく場であり、現実との戦いの場だと展覧会趣旨は述べている。しかし、<身体>というのは自分のコントロールと関係なく、病気になったり、死んだりするものだ。<身体>は、最後に残された現実との戦いの場なのではなく、先の大戦後、快適、安楽、便利を追求してきた経済社会は、<身体>をいかに楽にしてあげるか、または、<身体>の移動などをいかに効率的に行うか、<身体>の衰え、損傷をいかにして防ぐか、といった側面で展開されてきたのではないか。
そうした身体との関わり方に対して、メイクとか、スポーツとか、ダイエットではなく、もっと内面的な問題を表現するための身体への執着心に焦点を当てる、というのは、自分の心の状態を表現するため身体を使って、たとえばパフォーマンスとかで表すということなのか。その程度のことなら、表現行為として昔からいろいろな表現者が当たり前のように行っている。メイクとか、スポーツとか、ダイエットという言葉を並べれば、現代的になるわけではないだろう。
言葉をあげつらうつもりはないが、最近の新進とか気鋭などという枕詞のつく展覧会には、こうした、わけのわからない文章説明が非常に多いという印象がある。
何でもかんでも、グローバルとか、ヴァーチャルと言っていれば、国際的で、現代らしくなると思っている。
自主運営で、自らがリスクを負って展覧会を仕掛けているのなら、何をどうやろうが構わないが、自らはリスクを負わず、税金を使って「表現もどき」をしている甘さが、随所に感じられる。展覧会の多くは、それを行う学芸員とかが企画して、実際に形になっていくのだろうが、企画する側の意識が、どこを向いているかによって、展覧会の方向性も決まってくる。
写真表現などにおいて、「言葉で言い表されないものを表現する」などという言い方をしたり、そうしたことを演出するために、わけのわからない展覧会趣旨で煙に巻いたりするが、今回の「オン・ユア・ボディ」などを見ると、言葉で言い表される程度のことを表現しているにすぎないと感じる。
「言葉で言い表されることを表現する」というのは、どういうことかというと、既にわかっていること、既に意識化されていることを表現することだ。
そういう作品を見ると、共感することがあっても、驚きや発見はないだろう。アーティスト?を目指す予備軍にとって、評論家などに評価してもらう尺度のお勉強になるのかもしれないが、そうした”処世”に関心のない人には、「相も変わらずこういことか」とか、「同じことを違う方法で見せているだけか」いう白けた気持ちしか呼び起こさないだろう。
私が今回の「オン・ユア・ボディ」を実際に見たうえで、その趣旨を述べるとするならば、「男性とか女性に関係なく、社会変動が激しく、インターネットをはじめ仮想的空間も広がり、自分を何にくくりつけていけばいいかわからず不安定である。気持ちの部分の不安定さだけでなく、実際の生活面においても、収入の不安定さや、社会福祉の不整備などによって、不安定である。その不安の気分を表現したものを集めました。もしくは、その不安の気分を逆手にとって、自分が感じているコンプレックスの部分を他者とは違う自分らしさ、自分だけの特徴として、自分の売りにしていくという生き方もあるのではないかという前向きの提言もあります。」という程度の内容説明で充分なものだった。わざわざ、お利口そうに見えるような凝った言い回しをする必要はない。
評論家などが、「時代の気分を表現している。」と解説する場合、その「時代の気分」が既に多くの人に共有されているものであれば、敢えてそれをなぞって表現する意義がどこにあるのだろうと私は思う。週刊誌や情報誌などと同じことであり、それはそれで構わないが、敢えて、表現だと特別視したり胸を張るようなものではない。
「仮想現実」とか「不安」とかは、もはや表現物を見なくても、言葉で知っているし、その感覚もわかる。わかっていることを補強されればされるほど、その狭い所に押し込められていく。そのようなプロセスを経て結果的に生じてくる、押し込められることの息苦しさ、閉塞感、不安感、自虐的な恍惚感を、”時代の空気の表現”と評論家が言っていることが多く、現代の表現の多くは、延々とそれを繰り返しているような気がする。
閉塞感、不安感などを気分で消化する風潮に対して、簡単に消化できないほど、おそろしいほどの閉塞感や不安や気分の悪さを与える力を持ったものは、それを見る者の意識や考えの甘さを、それこそ目から鱗のように気づかせ、落ち込ませる力(それほどの力だからこそ自分のこれからに跳ね返ってくる)があるが、そういうものは本当に数少なく、ファッションの一部として簡単に消費されるだけの不安や閉塞気分を伝えるものが、それこそ腐るほど有り余っている。
反芸術も、最初にそれをやった人は偉大だけれど、そうしたスタイルがお墨付きを得て以降、そのスタイルをお勉強をして、後追いでコピーするものが無数にある。見習うべきは、スタイルではなく、意識を反転させる力なのに。
私の個人的なイメージだが、ロールシャハテストで、白の部分が向き合う人間の顔に見えていたとする。可能性としては、黒の部分の花瓶に見える余地も残されているのだが、時代の意識というのは、一方向にバイアスがかかりやすい。何となく顔に見えそうな白のスペースで、これが鼻だとか、これが耳だとか、自分を納得させていくと、しだいに顔以外には見えなくなっていく。そうした方向を強化するのが、評論家とか学者であり、教育や学習やメディアによって、それは強められる。
しかし、その白黒の絵を見ている時、意識では「顔」にしか見えなくても、無意識では、「花瓶」も見ている。意識がそれに気づいていないだけだ。
ある日、ものの見事に、白黒反転させて、もともと存在していたのに忘れられていた黒の部分の花瓶の存在に気づかせてくれる表現が現れる。それは、自分がそれまで信じていた領域を覆すわけだから、ショックだけれども、どこか爽快なものがある。狭いところに入り込んでいた自分を解放するからだ。芸術の力というのは、本来、そういうものではないか。
自分の領域を頑なに守ることだけ考えている人間には、なかなか届かないけれど、自分が守っているものの卑小さを心得ている人間にとって、白以外の見え方があることを知ることは、救いとなるだろう。
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